2015年10月22日木曜日

と、思い込むことと表象~シンボリックなもの







人は、「と、思い込んだもの」を心に~腹に
固着させて、自己を規定しながら生きている、、。

人が何事かの時に「と、思い込んだもの」は
その人自身のかなりのものを決定づけていて
固着したまま離れられないし、抜け出せない
その、何ものかになって、しだいに自己の自在性を奪ってゆきます。

その何事かの時点では
もやもやとした停滞感がつのり、ハッとある角度で
「思い込む」のであり、その時点では
ある種の解決であって、展開の起点でもあるのですが
この「と、思い込む」というものの
定着性がしごく頑固なのだといえるのです、、。

「と、思い込んだ」角度と云うのもが、
体癖における感受性の角度であり、
体癖の感受において受け入れられたものであるがゆえに
「解決」となりえて、また「自己規定性」を強固に持つのだと
考えられます。

この角度を少しでも動かすことが
可能であるとすると、「と、思い込んだもの」は
巨大な「重し」にはならないし、
体癖の「重し」も比較的軽いものになるのですが、、。

体癖は変えられうるものでない、、
感受性は歪んだ角度を持って動くものであり、
人はその違いによって、繁栄し
かつ社会性を持って自制 しあっているのであると
すると、この「と、思い込んだもの」は
なかなかに手ごわい影だといえます、、。



この「と、思い込んだもの」の強大さと崩壊しにくい
安定性を、外在化したものが「シンボル」です。

表象、「シンボリックなもの」は、
外在化され、社会性を持つことで
人の社会的存在を規定しながら
なお個人の自己規定にさえ影響を持ち始めるのです。

「シンボリックなもの」は
人の内部にある「と、思い込んだもの」の影と
よく似た構造を持っているため、
個人の内面に組みしやすく、侵入しやすいのだと
いえます。


けれど、「シンボリックなもの」を
どのように、受け入れるかは
体癖的な角度によるのです。

よく体癖によって数学が得意であるとか
文系が得意であるとか分けられると
考える向きもありますが、そうではなく
体癖によって数学をどう捉えるかが
傾向化されているというコトで、
どういう角度では理解しうるかと云う点に
体癖が表われると云えるのです、、。

そのような意味において、
シンボリックなものに対する各体癖の
捉えかたはおおよそ以下のようになります、、。





「シンボリックなもの」

 

シンボリックなものに寄り添おうとするのは二種。

シンボリックを纏って、装おおうとするのが五種。

シンボリックはものに、意味を求めるのが一種。

シンボリックなものを、ひたすら疑うものが九種。

シンボリックなものから、身を隠そうとするのは四種。

シンボリックなものに圧倒的に弱いのは、八種。

自分こそシンボリックであると疑わないのは十種。

シンボリックなものを、適当に使い

適当に捨てるのが三種。

シンボリックなものに、集合するものが七種。

遠くに置いてシンボリックなものに

守られようとするのが六種。















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