2015年10月28日水曜日

偶数種の本能的な嗅ぎつけ、について1





偶数種の本能的な嗅ぎつけ~二種



 

偶数種は、その体癖的な偏り習性の度合いがますます

濃くなり、鬱積するにつけ、集注要求の裏返しとしての

相手に対する、相手の弱り目や弱点に向けての鋭角的な

つけ込みを
始めます。

こちら側にとって、誠に嫌な、触れたくない、認めたくない

何らかの感情や感覚を突いてくるのです。

それが、何故か自分のどこかで除外しているような

ネガティヴな
何ものかを掴まれてしまったような

ハッとする何かに切り込んでくるのです。

その無意識の劣等意識を、

まさにそこ目がけて、真正面からグサッと突いてきます。

それは、見事なくらい嫌なものです、、。


 

二種は、こちら側にとって

なるたけ意識したくない、触れられたくない否定的な意見を

言ってきます。

それは、非常に不安を募らせるような

見事にネガティヴな予見的意見なので、一笑に付したいのですが

まさに今から、これからというタイミングで言い出すので、

時に心の内側に入ってしまう場合があります。

そこで、たいていは言われたこちら側は強力に正統的な

反対意見をまくしたてることになります。

家族や親子、夫婦、恋人同士、長年の付き合いの仲間など、、

関係が近ければ近いほど、このように

否定の否定でやり込めたくなります。

しかし、二種は2度、3度はそれを、

あからさまに否定しては
ダメなのです。

ふんふんと、聞いてるような聞いてないような感じで

言いたいことを言わせることが肝心で、その後4度目くらいで

何故、そうするのか、そうしているのかを、その理由と意味を

静かに語ります。あるいはメモのようなもので書き記します。

もともと、二種の言っていることは

ま反対の不定的な意見に過ぎなかったり、的外れなものばかり

ですから納得できるようにいい含めるように理由を伝えると、

そのことに関しては理解して、再びいうことは無くなります。

二種というのは、入ってくる情報の片々をつなぎ合わせて、

躍動的に全体像をつかむ事が苦手です。

そのため、近い関係の相手への関心をさらに呼び込むために

偶数種の本能的な嗅ぎつけであるこちら側の弱みや嫌な事を

グサッとつくような不安要素を何度もなんども口にします。

それらは、片々に過ぎないようなものでありながら、

一点の汚れや傷のように妙に心を揺らされるのです。

二種は自分自身についても、同じように片々に過ぎないものを、

一大事の気がかりにして騒ぎます。

それを少し強めに否定しても、

また次の片々の不安を掴まえてくるのです。

二種は、3度は否定しないで聞かないといけません。

そして4度目の指示としての否定の時は、事実を一つ一つ

確認しながら回答し指示を与えないと訴えが止むことは

ありません。















偶数種の本能的な嗅ぎつけ、について2





偶数種の本能的な嗅ぎつけ~四種


 

四種は、段階的に対応が変わります。

まだ、腹部第四の余力がありそうで

誰々の嫌なところ、どれだけ自分は困っているかなどの訴えを

している時はこれを強く否定して、叱るのです。

四種の近しい関係の者への揺さぶりは、天才的な嗅ぎつけで

こちらが、今まさにやろうとしている、その事そのものの

意欲を失わせるようなところを突いてくるのです。

なんというのかゲンナリしてしまうことを平気で言うのです。

そうなると、こちらも無言となってしまい、たちまち意気が

沈んでしまうのです。

これには、やはり

強い口調で否定して、叱りとばすようにしないといけません。

そうしないと四種に響かないのです。

これがまたけれど、こちら側としては

大変シンドイのです。

消沈してしまった勢いを奮い立たせないといけませんから、、、

 

しかし、四種の第四の余力がギリギリでもはや飽和状態で他人の

生の感情、自分の感情に仕立て上げられない未熟のもやもやした

何ものかが、ウジャウジャして界面からこぼれ出しそうになって、

いっぱいいっぱいである時は、この対応は効きません。

こうなってしまうと、もはや四種の奥の奥にあるドロドロした

毒のような、他者に対する罵しりや、そしり、恨み、

つらみなどの闇の言葉を引き出して来ないとならないのです。

うまく表出できると、そのおっとりして清楚な、柔らかい物腰の

相貌と打って変わって、粗野で下卑た、

泥のような言葉に、こちらがビックリするのです。

この人は、こんな人だったのか、、

と唖然とします。


しかし、このような毒をため込み

表に全く現わさないその美しい姿も

四種のひとつの事実でもあるのです。















偶数種の本能的な嗅ぎつけ、について3






偶数種の本能的な嗅ぎつけ~六趣



 

六種は、こちらが困るような「行動」を取ります。

こちらが嫌がる、参ったなというような振る舞いをするのです。

六種の場合、どう対応するかとか言う前に、こちらに反応をさせます。

つまりは、体を押さえ込むとか、

前からとか後ろから抱きすくめたり、庇ったりしないとならないのです。

スキンシップというか、肉体と肉体のぶつかり合いというか

強い圧迫というか、束縛というか、、

そういう「行動」をこちらに取らせます。

まるで、普段ありえないような青春ドラマや漫画の中でしかない

ような強いキヅナを求めるのです。

 

躊躇してたりすると、さらに過激な行動を取り始めます。

何としても、体を張って押さえ込まないとならないのです。

六種というのは、まだそれほど体癖的偏り度合いが激しくない時は

引きこもったり、暗い顔をして何を考えているのか分からないような

ボオッとした感じで、何度もなんども声かけしたりさせて、

こちらの関心を誘うだけですが、この時に抱きすくめたりしても

あまり、向こう側に行ってしまった六種をこちらの世界に引き戻す

ことはできません。

そういう時は、何度もなんども

暗い穴底に向かって呼びかけているしかないのです。

この時に、あまりに深くスキンシップを取るとこちらも同じように

深い穴に引きづり込まれます。

堕落的で厭世的で、自棄的で破滅的なな世界に連れ込まれます。

ですから、この段階ではおーい、オーイと姿のない暗い穴に向かって

呼びかけ続けることくらいしかできないのです。














 

偶数種の本能的な嗅ぎつけ、について4





偶数種の本能的な嗅ぎつけ~八種



 

八種は相手の弱みに付け込むオーソリティですから、

もはや何とも言えません。

居るだけで迷惑な人たちですから、、


八種は、他人から最も言われたくないなと思うような事を鋭く

突いてきて、貶めようとして参ります。

権力を笠に着て、言われなくても良いような事まで、

突き倒して精神的重圧をかけます。

八種はどういう訳か、この世界では社会的権力をすでに手に入れていて、

使える器でもないのに、下の者をいいように、なぶります。

標的は常に変わり、目の前から消えて無くなるまで攻撃し続けます。


本能的な人の弱みに付け込む勘は

鋭く、草むらに潜ませていたようなコンプレックスを

引きづり出されるような気分を味わいます。

多くは、根拠も理論もないハッタリの類なので突き崩すのは難しく

ありません。

ただ、一旦打ち負かすと、その場ではスゴスゴという感じで、

プイッと姿を見せなくなりますが、この「負け」を

いつまでも忘れず執念深く反撃する機会を狙い続けます。

そして思わぬ方向からしつこい復讐を仕掛けてきます。

 

八種と、どう渡り合うのか、、、、

というのは、喧嘩別れしかありません。

八種を完膚なきまでに、論破して離れるか、

半ば諦め気分でイタチの最後っ屁のような一言を投げつけて

姿を消すか、どちらにしても離れるしかないのです。

あるいは、八種と付き合っていく気持ちがあるならば、

適当に聞き流し、適当に謝って、怒りの矛先を
自分からスルリと

他の何かに
移させてしまうのが、長く付き合うコツです。

若いちゃっかりものの女性はこれが得意です。

しかし、コレでは八種の鬱積した余剰体力を捌かせることが

できません。標的が変わるだけになってしまいます。

ギリギリまで余剰体力を使わせるには喧嘩別れしかないのです。

捌けてしまうと、八種は異様に大人しい時期をしばらく過ごす

のです。












偶数種の本能的な嗅ぎつけ、について5





偶数種の本能的な嗅ぎつけ~十種


 

十種の弱り目への付け込みとは、何でしょう?

十種の一般的な印象は広く、誰かれ関係なく受容すると、

いうような母性的で柔らかな包容力という捉え方が
定説です。

しかし、十種は自分という中心点の円の中には、

誰かれ構わず招き入れますが、自分という中心が損なわれる

事態を感知すると、すぐさま猛烈な排除を始めます。

円サークルの中で、もう一つ別の中心にならんとする勢力を、

メタメタになるまで潰しにかかります。

 

十種の感覚は最初から最後まで

思い込み、ですから

自分の思い込んだ、感覚、世界観で円の中のものたちを

手なずけようとします。

もともと緻密な深い思考ができるタイプでないためそれらは

大まかで、
ゆったりした感じを纏っていますから

円の中のものは、まあ、いいかという感じでそれを許容してしまい

ます。

しかし、その思い込みを思い込みと感づかない十種の執拗さや

頑なさを覚え始めると、しまったと思うのです。

十種の思い込みと云うのは感違いと同率ですから

この圧倒的な感違い、に気付いてもすでにこの時点では

これを表ざたにできないのです。。



十種の執拗な攻撃にさらされたら、どうするかですが、これは

とぼけてしまう、事です。

あれっ、ごめーん、、、とか、言ってとぼけてしまうのです。

中心をぼかしながら、もう一つ小さな中心を作って、いつの間にか

楕円にしてしまうのが、最良なのです。

元の中心に、成り替わるような大きな中心を作って、

十種を
追い払ってしまう事は、十種に相当なダメージを与えます。

毀れてしまった十種ほど、どうにも手がつけられないものはなく、

その面倒を見るつもりなら構いませんが、自分自身を毀していく、

どこまでも傷つけて行く、、

毀れた十種の周りのものは、相当に大変なのです。











2015年10月22日木曜日

と、思い込むことと表象~シンボリックなもの







人は、「と、思い込んだもの」を心に~腹に
固着させて、自己を規定しながら生きている、、。

人が何事かの時に「と、思い込んだもの」は
その人自身のかなりのものを決定づけていて
固着したまま離れられないし、抜け出せない
その、何ものかになって、しだいに自己の自在性を奪ってゆきます。

その何事かの時点では
もやもやとした停滞感がつのり、ハッとある角度で
「思い込む」のであり、その時点では
ある種の解決であって、展開の起点でもあるのですが
この「と、思い込む」というものの
定着性がしごく頑固なのだといえるのです、、。

「と、思い込んだ」角度と云うのもが、
体癖における感受性の角度であり、
体癖の感受において受け入れられたものであるがゆえに
「解決」となりえて、また「自己規定性」を強固に持つのだと
考えられます。

この角度を少しでも動かすことが
可能であるとすると、「と、思い込んだもの」は
巨大な「重し」にはならないし、
体癖の「重し」も比較的軽いものになるのですが、、。

体癖は変えられうるものでない、、
感受性は歪んだ角度を持って動くものであり、
人はその違いによって、繁栄し
かつ社会性を持って自制 しあっているのであると
すると、この「と、思い込んだもの」は
なかなかに手ごわい影だといえます、、。



この「と、思い込んだもの」の強大さと崩壊しにくい
安定性を、外在化したものが「シンボル」です。

表象、「シンボリックなもの」は、
外在化され、社会性を持つことで
人の社会的存在を規定しながら
なお個人の自己規定にさえ影響を持ち始めるのです。

「シンボリックなもの」は
人の内部にある「と、思い込んだもの」の影と
よく似た構造を持っているため、
個人の内面に組みしやすく、侵入しやすいのだと
いえます。


けれど、「シンボリックなもの」を
どのように、受け入れるかは
体癖的な角度によるのです。

よく体癖によって数学が得意であるとか
文系が得意であるとか分けられると
考える向きもありますが、そうではなく
体癖によって数学をどう捉えるかが
傾向化されているというコトで、
どういう角度では理解しうるかと云う点に
体癖が表われると云えるのです、、。

そのような意味において、
シンボリックなものに対する各体癖の
捉えかたはおおよそ以下のようになります、、。





「シンボリックなもの」

 

シンボリックなものに寄り添おうとするのは二種。

シンボリックを纏って、装おおうとするのが五種。

シンボリックはものに、意味を求めるのが一種。

シンボリックなものを、ひたすら疑うものが九種。

シンボリックなものから、身を隠そうとするのは四種。

シンボリックなものに圧倒的に弱いのは、八種。

自分こそシンボリックであると疑わないのは十種。

シンボリックなものを、適当に使い

適当に捨てるのが三種。

シンボリックなものに、集合するものが七種。

遠くに置いてシンボリックなものに

守られようとするのが六種。